月読の晩餐


 ピンポーン…………
「郁未さ〜ん、私です、由依ですよ〜。」
 …………
 しばしの沈黙。返事は無い。
 ピンポピンポピンポ〜ン……………
「郁未さ〜ん、開けてください〜っ。」
 ……………
 しばしの沈黙。まだ返事は無い。
「寝てるのかしら………?」
 由依の隣で、口元に手を当てながら晴香が呟いた。もう昼近いのに、あの娘にしては珍しい………。晴香は不思議そうに首を捻った。郁未は一人暮しが長いはずである。
「……それなら、起こすまでです。」
「………へ?」
 晴香が間の抜けた声を発した時には、もう由依はインターホンに手を伸ばしていた。
 ぴんぽぴんぽぴんぽぴんぽぴんぽぴんぽぴんぽぴんぽぴんぽぴんぽぴんぽぴんぽぴんぽぴんぽぴんぽぴんぽぴんぽぴんぽ
 バンッ!!
 物凄い音を立てて扉が弾けるように開く。
「………近所迷惑。」
 パジャマ姿で心底うんざりとした表情の郁未が、じと〜っとした目で二人を睨みつける。
「あ、郁未さん、おはようございます〜。」
「郁未、おはよう。」
 郁未のそんな表情など全く意にも介さず、淡々と挨拶をする二人。
「………あのね、ここ、アパートよ?」
「ええ、そうですね。」
「………となりの家が近いの、………わかる?」
「ええ、だから早く入れるように起こしたんです。」
 由依はさらりと言うと、するりと郁未の横を通りぬけて部屋の中に侵入してくる。
「失礼しま〜す。」
「ちょ、ちょっと由依………」
「お邪魔しま〜す。」
 晴香もわざとらしく大きな声でそう言うと、由依を止めようとした郁未の横を通りぬけた。
「あ、あのねぇ……………それにしても、何で突然?」
 郁未の部屋は寝室と居間が一緒になっている小さなアパートの小部屋である。ベッドの上に転がっている下着を真っ赤になりながら慌てて拾いつつ、郁未は尋ねた。
「話すと長くなるんですよ〜。」
「………いいわよ、言ってちょうだい。」
「え〜っと……実は………私も一人暮しをしているんですけど………」
 由依は恥ずかしそうに目を伏せ、もじもじと言い出し難そうにしている。
「……今月、かなりピンチで………」
「………………」
「昼食をとるお金も無くて………」
「………………」
「……だから、あわよくば郁未さんの家で昼食を頂こうかと………」
 しばしの沈黙の後、ツッコむことも諦めたように、郁未は深い深いため息をついた。
「……で、晴香は?」
「私は…………由依に偶然出会ってね。」
 嬉しそうに目を細める由依の横で、晴香が口を開いた。
「で、郁未の家に行くって言うから、観光に。」
「…私は珍獣じゃないわよ。」
「プラスあわよくば昼食を頂けるかと思ってね。」
 晴香は悪戯っ子のような笑みを浮かべつつ、テーブルの横に腰を降ろす。
 二人の視線を浴びて、渋々といった表情で郁未は口を開いた。
「……仕方ないわね、じゃあ、すぐ作るから待っててね。」
「わ〜っ、ありがとう郁未さんっ!」
「……期待しないでよ。」
 諦めたように台所へ姿を消す。
 ……………
 卵を割る音が響いたその時、晴香と由依は目を見合わせてにま〜っと笑みを浮かべた。
 やりますか? 当たり前よ。
 言外に語り合うと、頷く。


 ………だいたい、こ〜唐突に普通は……
 郁未はせわしなく手を動かしつつ、ぶつぶつと文句を言いつづけていた。
 ………も〜、ホント……
 ぶつぶつぶつぶつ……
 ……手抜きできないじゃないのよ……
 ぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつ……
 ……ホント、どうしようもない親友よね……
 卵の入っているフライパンを素早く火から離すと、菜箸で掻き混ぜていく。
「よし、一つ終わりっと……」

 ………どう?………ありませぇん………

「……?」
 不審な、もうそれはそれは不審すぎる声が微かに耳に届く。
 ぴた……と動きを止めた郁未は、そぉぉっとその場所を離れた。


 由依がベッドの敷布団の下を手でまさぐりながら口を開いた。
「あれ〜? 無いですねぇ………」
 晴香も本棚の奥をごそごそと確認している。
「ホント、あの娘なら成人指定の雑誌とか持ってそうなのに………」
「きっとありますよ、郁未さんなら。」
 にっこりと笑みを浮かべつつ、さらに奥にまで手を突っ込む。
「そうよね、あの娘、見かけによらず積極的だしね。」
「そうそう、えっちぃんですよね。」
 二人して爽やかに郁未のえっちさについて語る。
 明らかに近づいてくる殺気には微塵も気付かず、である。
 …………すうっと息を吸い込む、そして思いっきり腕を振り上げる。
「…………やめんかっ!!」
 ごす。
 郁未は辞書で晴香をかっ飛ばした。
 続けて、逃げ出そうとした由依を柔道の要領で床に投げ落とす。
「…………ぐふっ…」
「……はぅぅ……」
 僅か数秒。
 その間に、勇敢な戦士たちは見事に散っていた。
「さすが………私が認めた珍獣………」
「誰がよっ!」
 ずし。
 トドメである。
 晴香は頭の上に辞書を載せつつ、ぱちぱちと目の前で弾ける星を見ていた。




「あ〜、美味しかったです〜。」
「ホント、郁未って見かけによらず上手いのね。」
「あのねぇ……」
 郁未は言いたい放題(かつ、先程のダメージを微塵に見せない)の二人に苦笑を浮かべつつ、皿を重ねていく。
「で、今日はもう帰るの?」
 二人は顔を見合わせ、にまっと笑うと、揃って首を横に振る。
「実は、これから人が来るんだけど……」
「誰が?」
「葉子さん………………昨日、約束したの。」



 その電話が鳴り始めたのは、ちょうど郁未がベッドに入り目を閉じようとした、まさにその時であった。
(やかましいわね……こんな時間に誰よ……。)
 内心愚痴をこぼしつつ、郁未は諦めたように温まりかけたベッドから体を起こす。
「……寒っ……」
 パジャマ一枚の体をぶるっと震わせる。
 もう12月。空気が冷たく肌を刺す季節だ。
「……まだ鳴ってる…」
 ぶつぶつと呟きながら部屋を出て、廊下の明かりをつける。冷たい木の床が郁未の足を急がせた。
 今だ響きつづけている古臭い黒電話の場所まで足早に辿りつくと、もう既に15回はなったであろう電話の主を想像しながらすぐに受話器を取る。
(一体誰なのよ、この非常識っ!!)
「…はい、天沢です。」
 思わず、不機嫌な声が露骨に出てしまう。
 すると、
『……郁未さんですか?……げほっ……』
 電話の奥から、くぐもってはいるものの聞き覚えのある声が耳に飛びこんでくる。
 郁未はあまりに意外な人物の登場に、寝ぼけていた頭が一瞬ではっきりと輪郭をとる。
 鹿沼 葉子。
 FARGOに先にいたAクラス唯一の人材で、FARGO瓦解と同時に郁未らと共に普通の生活に戻った女性である。
 彼女はやっと住む部屋も決まり、一人暮しを始めたばかりであった。
「よ、葉子さん? どうしたの、こんな夜中に。」
 葉子は深夜に電話するほど非常識な人間ではない。よほどのことが無い限り、だ。
 それに気がついていた郁未は、少々慌てて言葉を繋ぐ。
『じ、実は………どうしても相談したいことが………』
 声が暗い上に、あまりにも元気が無い。
 もともと元気よく話すほうではないが、いくらなんでも生気が無さ過ぎる。
「ど、どうかしたの!?」
『………あの、今日はもう遅いですから……明日の日曜、家まで伺ってよろしいですか?』
 遠慮がちに尋ねてくる。
(……う〜んと……別に何にもなかったわね。)
 あまりに味気ない休日の予定に、内心苦笑しつつ、
「ええ、いいわよ。待ってるわ。」
 と答えておく。
『ありがとうございます…………それでは。』
「あ、ちょっと、どういう……」
 ……ツー……ツー……ツー……
「……説明くらいしてくれたっていいのに………」
(まったく、やっぱりよくわかんない人だわ……)
 諦めともとれるため息をつくと、郁未は肩をすくめて自分の部屋に向かった。
 ………あ、もうこんな時間……
 ……寝坊、しちゃうかも…な………
 くてっとベッドに倒れこむと、郁未はそのまま深い眠りに落ちた。



「……というわけなの。」
「なるほど、だから寝てたわけね……」
「そうそう……」
 言いつつ、大きなあくびを噛み殺す。眠い、本当に眠い。
 一寝入りしたいわ………
「でも、別に私達がいてもいいわよね?」
 郁未の淡い希望は叶いそうに無かった。
「…え?」
 あまりに意外な方向への展開に、郁未は硬直したまま二人を見る。
「ねぇ、由依。」
「そうですよぉ、私、夕食も頂かないと。」
「あのね、由依………」
「あ、こんなところにゲーム発見です!」
「お手柄よ、由依。」
「ちょ、ちょっと……」
「わ〜っ、ソフトも結構ありますよ?」
「そうねぇ、これで対戦してみない?」
「いいですよぉ、負けませんからねっ!」
「ふふ、私に勝てるかしら?」
「そんな三流ボスみたいなセリフ言ってるから駄目なんですよ〜。」
「誰が三流ボスよ、誰が!」

 ………葉子さん、ごめんなさい。私、勝てません………
 がっくりとうなだれた郁未は、特大のため息とともに皿を片付け始めるのであった。






「あ、いらっしゃい葉子さん。」
「こんばんは、お邪魔します。」
「あ、こんばんは〜。」
「こんばんは。」
 居間でずうっとゲームをしていた二人が、顔を覗かせつつ挨拶を済ます。
「……ごめんね葉子さん、オマケが二人ついてきちゃって………」
 諦めたようにため息をつきつつ、葉子に視線を送る。
「いえ、別にいいんですよ。」
 楽しそうに微笑むと、葉子は靴を揃え、居間に顔を出した。





「で、相談ごとって何かしら?」
 心配そうに郁未は葉子の顔を覗きこんだ。
「実は………」
「実は?」
 思いつめたような顔をはっと上げると、葉子が口を開いた。
「お料理ができないんです!」
 しばしの沈黙。
「………ああ、なるほど。」
 確かにそういえばそうだ。
 葉子は長い間、社会とは離れた場所で生活していた。
 食事は決められたもの。料理などできるはずも無い。
「それで………失敗ばかりしていたら………」
 恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「……お金、無くなってしまいまして……………」



 私、今月持つのかな………
 郁未は夕食の準備をしつつ、超特大のため息をついた。




 その頃。
「で、そっちはどう?」
「い〜え、ありません。そっちは?」
「こちらには何も無いようです。」
 ごそごそと、三人はまたしても郁未の寝室を漁っていた。
「絶対あるわよ、きっとドギツイのが。」
「そうそう、郁未さんって見かけによらずえっちぃですからね。」
「そうなんですか………」
 言いつつタンスの引出しを開けた葉子に、一冊の単行本が目に止まった。
「………これは?」
「わっ、何か発見しました隊長!」
「よろしい、探索開始よ。」
 何やらウキウキしながら、三人でそ〜っとページをめくる。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ふふ、いい格好だよ、先生………」
 少年は手に鞭を持って、ニヤリと笑みを浮かべると彼女の側で立ち止まった。
「ん〜〜〜っ! んん〜っ!!」
「何て言ってるのかわからないよ、それじゃあ。」
 クスクスと笑いながら、ゆっくりと全身を舐めるように眺めまわす。
「んんんっ!」
「ふふ、行くよ先生。ずっと前から一度、鞭で人を打ってみたかったんだ。」
 そう言うと、少年は鞭を大きく振り上げた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 ばしいぃぃっ!!
「きゃあっ!」
 いきなりの強い衝撃が、二人の手と本を吹き飛ばす。
「な、なんなの………?」
 手をさすりつつ辺りを見まわした晴香の顔が硬直する。
 いつの間に現れたのか、郁未の目が据わっている。
「ゆ、由依っ! 盾になりなさいっ!!」
「わ、い、嫌ですよ! 晴香さんこそ力持ってるなら対抗してくださいよっ!」
「無茶言わないでよ! こんな化け物みたいに強い娘、相手にしてらんないわよ!!」
「そ、そうだ、葉子さんはっ!?」
 由依が慌てて振り返ったその先で。
 …………葉子はすやすやと寝息を立てていた。
「うわっ、顔に似合わず汚いですよぉっ!!」
「い、郁未、落ちついて話し合いましょ、ね?」
「ひぃぃ、晴香さん、聞く耳持たずって顔で向かってきますよぉっ!!」
「ちょ、ちょっと、由依、早く盾に……」
「嫌ですってば、晴香さんこそ…………」


 ……楽しそうでいいですね。
 葉子は微笑みつつ、背後の悲鳴を聞かないように頭を深く布団にうずめた。






 どんっ、とテーブルの中央に大きな鍋が置かれた。
 狭い居間中に、いい匂いが充満する。
「はい、シチューですよ。」
「わぁ♪」
 由依がはしゃいだ声をあげる。
「私が自信があるの、これしかないから。」
「へぇ、そうなんですか〜。」
 無言でこくりと頷く。
「それじゃ、冷めないうちに食べましょうか。」
「そうですね。」
 四人それぞれ、腰を下ろした。

 全員にっこりと微笑むと、誰からともなく手を合わせる。

「南無阿弥陀仏………」
「由依、いい加減になさい。」
「……はぁい。」


「いただきます〜。」
 声が重なると、すぐに楽しそうな、かしましい声が部屋中に響きはじめた。

「美味しいですよ、ホントに。」
「そりゃあ、お母さん直伝だもの。」
「へぇ、いいですねぇ………」
「郁未さん、後で作り方、教えてくれますか?」
「いいわよ、葉子さんなら多分すぐに作れるようになると思う。」
「あ〜、私にも教えてくださいよぉ。」
「由依が料理?」
「あ、晴香さんひどい……絶対信じてませんね?」
「ええ、私現実を見つめる方なの。」
「う〜、ひどい……」
「まあまあ、それじゃ、後で一緒に教えてあげるわよ。」
「ありがとうございます、郁未さん。」
「いえいえ。」
「晴香さんは料理できるんですか?」
「そりゃあ…まぁね。」
「あ、きっとできないんですよ、だから私にあんなこと………」
「そんなわけないでしょ。」
「それじゃあ今度勝負しますか?」
「………いいわよ、やってやろうじゃないの。」
「あのねぇ、二人とも……夕食くらい穏やかに食べられないの?」
「………ふふ、楽しそうですね。」
「……はぅ………」

 郁未はこの一日で何度ついたかわからないほどのため息を、もう一つ足した。









 その後。
「えっ、家に泊まるっ!?」
「そうで〜す。だって、家に帰っても食費ないですから。」
「わ、私も………」
 やたら嬉しそうな由依と、申し訳なさそうに頭を下げている葉子。
「あ、あのねぇ、私もそんなに余裕あるわけじゃ………」
「大丈夫です、体で払いますからっ!」
「………」
 ど〜ん、と言いきる由依に、郁未はただひたすら頭痛に耐える他、無かった。

「郁未さん、大丈夫ですか?」
「……ごめん、葉子さん、そこのバファ○ン取って……」
「こ、これ、半分優しさでできてるんですよね。誰のなんですか?」
「………」

 ずき〜ん。

 郁未は額を押さえつつ、諦めたような笑いを浮かべる。
 今月……死ぬほど大変になりそ………






「………あっ、また…」
 晴香の悔しそうな声がまた台所に響く。
「ぐぐぐ……」
 こげてしまったフライパンを見て、晴香は歯噛みをして地団太を踏む。
「……絶対、由依には負けるもんですか…………」
 目に激しい闘士を燃やしつつ、晴香は今晩八度目の挑戦を開始した。


 誰にとっても、今月は大変になりそうである。

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